読売新聞1999年12月5日(日)

 思いは祖国へ 異郷の哀切



東の国へ渡る鳥
久永 強 1993年 41cm×41cm

 思わず首は上に向く。 この感じ、覚えがある。 たとえばビルの谷間から見上げる高層建築。視界は建物に包囲され、その真ん中に小さく空が開く。 同じように空を見上げる作者がいる。高い樹木に囲まれて彼は立っている。 真ん中に空が開く。そこを横切って飛ぶものがある。首が疲れる。彼はほとんど真上を向いている。 この見上げる角度の垂直性、その、直立するひたむきさのなかに、絵の動機はある。 深い空を横切って、鳥が飛ぶ。どこへ?東の国へ。つまり日本へ。祖国へ。 彼の思いは鳥に乗って東へ飛ぶ。日本へ。祖国へ。 哀切な感情が、ひっそりと、深々と刻まれた。大胆な、むしろ素朴きわまりないこの天地自在の構図の動きが、そこにある。

 様式以前の、素朴で直観的な色彩と形態が、そうして過酷なシベリアの日々を描き出していった。 斃死(へいし)した友の身体が凍土に埋められる。乏しい食糧に全員の監視の目が光る。狂って有刺鉄線をよじ登る男がいる。 一連の作品が前年の熊本に続いて東京で公開され、衝撃を与えたのは、敗戦から50年目の夏だった。 作者久永強、本業はカメラ修理業。60歳で油絵を始め、15年たって自らの抑留体験に向きあった。 2年で43点を描き、精根を使い果たして倒れた。体重は20キロ減った。文字通り、身を削ったのだ。 プロの仕事ではない自分の必要から描いた絵が、人を激しく揺り動かす事態がそうして起きた。何なのか。答えは彼の絵の中にあった。

  「渡り鳥見てると、とんでもないことを考えるんですよ。全部の鳥にヒモつけて束ねたら日本まで一緒に飛んで行けるんじゃないか、なんてことを、大真面目にね。そういう鳥をロシアの連中はバンバン撃つ。撃つな、バカヤロー、と怒鳴るんです。連中は、日本語わかりませんからね。絵を始めたときから抑えに抑えていたものが、一気に噴き出したように作品はわいて出てきた。一度に3枚並べて描いたこともある。異郷に死んだ友の無念が、背中を押したんですかね。でも結局、戦争ってのは殺しあいなんですよ。もうこんな愚かなことはやめよう、これからは、という思いにむしろ引っぱられたんだと思う。これだけは自分としてどうしても言い残しておきたい、ということですね。この(画面下の)1本だけ高い木ですか?自分ですよ」

  大連で時計の技術者として自立していた時、応召。昭和20年秋、シベリアに連行され、バム鉄道建設の強制労働に従事させられた。 収容所の現場監督は残忍な男だった。「私自身は幼いころから、たたかれ、けとばされ、ずっと耐えてきた。だからどんな状況でも歯をくいしばることができるんです」 それにしても−−−と彼は考える。人間はなぜあそこまで残忍になれるのか。人間とは信頼に価するものなのか。 だが、最悪の環境下にも友がいた。飢えと疲労の極限で、他人を気づかうことのできる日本人がいた。 久永強の絵では、生の極限のかたちが、あるおかしみの感覚と表裏になっている。希望を失わず正気で生きた男が獲得したまなざしの深さがそこにある。 結局、彼は生への愛惜を描いた。一つの魂の救済の過程を、描ききったのである。  
 編集委員 芥川 喜好


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